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スタッフのつぶやき

    わが社の歴史 番外編 丹波篠山との縁

    数年前から丹波篠山に黒豆を作りに行っていますが、江戸の頃も丹波篠山と大坂は交流があったようです。

    朝日新聞社編集の「上野理一傳」などによると、京都や大坂に近く、幕府にとって重要な地域であった篠山は、譜代大名が統治するのがならわしでした。

    寛永の頃より統治していた青山氏は大坂城代勤務が多かったため、藩士も城下の町人も自然に大坂と行き来をしていたといわれています。

    天下の台所の商人のスピリッツがこの地にも伝えられました、同時に船場や天満に出て奉公し、ひとかどの商人になって大坂に住む人も多かったと言います

    ブログのわが社の歴史②や④にも書いていますが、豊田家の人も篠山とは多くのかかわりをもっています。

    4代目の豊田善右衛門の実家上野家の「西垣屋」は本業は両替商でしたが、質店と糸店を兼ねており、大坂との行き来は頻繁でした。

    両替商の仕事は大坂の十人両替を親両替として、取引を依存していました。

    糸店は綛糸(かせいと)を販売し、主に大坂の糸問屋から仕入れていました。綛糸の仕入れ代金の支払いも手形取引だったので、両業をあわせて大坂との行き来は盛んであったようです。

    江戸末期には、各藩が大坂や京都に藩の産物会所を設けることになりましたが、ほとんどは地域の豪商たちが手伝うこととなっており、西垣屋の上野保兵衛(4代目豊田宣衛門の実父)も藩の産物会所を手伝っていました。

    大坂の三井糸店との関係も、西垣屋に奉公していた廣石善兵衛の叔父の廣石平吉を上野家の分家上野義太夫が取引先である三井糸店に紹介し、廣石平吉は2代目善右衛門に見込まれて豊田家の養子となりました。

    どのように行き来をしていたのかなど想像の域をこえませんが、興味はつきません。

    高麗橋からどのような街道を通って篠山まで行っていたのか?なにわ橋を超え十三の渡し、神崎の渡しをこえ、伊丹を抜け、猪名川から篠山の東から城下に行ったのか?

     

    古い町並みが残る丹波篠山

     

    もしくは、現在の176号線沿いに道があったのか?伊丹から三田へぬけて行ったのかなど謎です。篠山でなにか痕跡がみつけられたらいいなと考えています。

     

    *参考文献 朝日新聞社「上野理一傳」