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スタッフのつぶやき

    わが社の歴史 番外編②豊田八重のこと

    5代目豊田善右衛門に嫁いできた菅原八重の曽祖父の実家は四国の半田村の生まれで大阪で一旗揚げるべく一家で来阪し西九条に店を構えました。ちょうど明治維新のころだったようです。屋号を改め、シナ方面の綿花に目をつけ、綿くり工場(綿花を綿と種に分けることを綿くりといいます)を経営していたとのことです。

    その三男の弥吉が桝屋という屋号で廻船問屋を営んでいた菅原家に婿養子にはいりました。八重の祖父に当たります。

    弥吉は廻船業は汽車の発達により終わりが来るであろうと将来を見越し、実家の綿花の事業に携わったとあります

    今、船場で私たちが綿つくりをしていることに不思議な縁を感じます。

    兄弟で半田綿行(はんだめんぎょう)という会社を設立しシナ方面との取引を行っていたようです。

    弥吉の娘に三井物産の上海支店に勤めていた伊原開治郎が婿養子に入りました。家業を継ぐにふさわしい人物である。そして開治郎自身も海外で活躍できる家業を継げることに夢を託しました。結婚後上海支店長として上海にわたったそうです。

     

    八重子の父開治郎と叔父

     

    そのころ上海までは神戸港から船で5日もかかりました。今の海外赴任と異なり大変な苦労をしたのかなと思います。私たちの知っている曾祖母が明治時代に海外で生活をしていたことなど全く知らなかったです。

    八重がうまれるにあたり日本に帰国をしました。

    八重の父はその後も上海と日本を行ったりきたり、そのころ住宅地として開発が進んでいた芦屋の美しい松並木の浜に魅せられ家を建てました。大阪で商売をしていた多くの商人たちが、交通の発達とともに阪神間に移り住みました。

    半田綿行については、祖母が書き残したものでしか知ることができませんでしたが、戦争で営業ができなくなるまではあったようです。

    芦屋の家は最初は日本家屋だけだったようですが、敷地の横に迎賓館として洋館を建てました。

    今も阪神間モダニズムの建築として残っています。(八重子の妹の美代子の家 岸科忠雄邸として今はギャラリーとして利用されています)