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    わが社の歴史④ 豊田文三郎について

    三代目豊田善右衛門の次男文三郎は嘉永6年(1853年)に生まれました。世の中はペリー来航により大騒ぎの最中でした。文三郎は長男寅之助がおっとりとした性格であったのとは反対に、才気煥発という生まれ育ちであり、物ごころがつくと「商売人はごめんだ」と放言していたといいます。10歳にもならないうちから、今泉芝軒の門下にはいり、その後藤澤南岳の門下に入り漢籍を修めました。

    また、敷田年治に国書国風を学んだとあります。学問の道に進みたかったようです。

    しかし三代目善右衛門の長子寅之助は明治5年(1872年)に亡くなり(善九郎と改名し家業を継いでいた)、親族が集まって相談し、改めて跡を継ぐはずの文三郎に本家を継がせようとしました。文三郎が20歳になる前のことでした。

    文三郎は自分の性格は商売人には向かない、商人として一生を終わるつもりはない、自分は変革に際し立ち遅れた大阪商人に万国の新知識を導入して彼らを訓蒙していくことが自分の使命であり、家業は自分ではなく前年入店し妹包子の婿に配せられる上野又吉が適任であると父を説いたとあります。

    そして言論界、府政界、財界などに活躍しました。

    明治9年(1876年)、同志とともに大阪演説会をはじめ立憲政治の運動に奔走し、明治11年には「大阪でっち新聞」というフリガナつきの絵入り新聞を発行しました。これもあくまでも文明開化の提唱であり、社会教育であり、政治教育のためのものでした。

    明治15年(1882年)には、大阪府会議員となり、府や市の政治のために苦労を顧みることなく全力で取り組んだそうです。

    教育衛生などに熱心で明治10年(1877年)に愛育社を設立、明治13年(1880年)には、滝山瑄氏らと大阪最初の町立幼稚園である愛珠幼稚園の創設にもかかわりました。(WEBサイトのトップページはゆかりある愛珠幼稚園の通りです)

    明治23年(1890年)には第1回衆院選に当選しました。

    明治21年大阪電燈会社を設立、取締役となり、明治29年(1896年)には阪神電鉄の前身の摂津電気鉄道の創設にかかわり、また同年友人とともに教育保険会社を起こし、その設立会場に臨み、帰って床に就いたとあります。

    それより以前、国事に尽くしたことにより、銀杯を下賜せられました。全快の日に封印を解こうとしていましたが、死期に臨んで、四代目善右衛門と恩賜の杯を上げようとしましたが、既に立つことができずにこれを奉して感泣したそうです。

    義理の兄弟である四代目善右衛門や上野理一氏(四代目善右衛門の実兄 朝日新聞の中興の祖)との公私にわたる親交は亡くなるまで続きました。

    「商人の都における庶民子弟のための社会教育」が文三郎の基本であったようです。