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わが社の歴史② 江戸の終わりごろ
創業期から江戸の末期までは、資料などもなく,いったいどのように商売をしていたのかなと想像を膨らませています。
資料がでてくるのは江戸の末期になります。
豐田の当主は代々「善右衛門」を名乗ってきました。創業当時からという説もありましたが、菩提寺である法楽寺にある過去帳より、初代の善右衛門をみるのは文政7年(1824年)に没した正式には初代柏屋武兵衛が、初代善右衛門と推察されます。
この武兵衛は淡路島より縁故をたよって大坂の三井糸店に奉公に入って、次第に立身出世して三井糸店の女婿となりました。
また、豊田の姓を称するようになったのもこの頃からのようです。
初代武兵衛の後はその子二代目武兵衛が継ぎました。しかしながら実子は幼くして亡くなり、篠山生まれの手代廣石平吉の才覚に目をつけ夫婦養子とし、この平吉を善右衛門(三代目)に改名させました。
平吉にはすでに一子寅之助がいましたが、これも正式な嫡子として認めたとあります。
篠山は交通の要として栄えてきた歴史があり、商業地として発展していた大坂に奉公をする方たちも多かったようです。
江戸末期になり外国軍艦の来航騒ぎが三井糸店にとって思いもかけぬ商機をもたらすことになりました。(朝日新聞社編 上野理一伝より)
幕府は諸藩に命じ、大船建造を解禁し、各藩ともに武器、武具の修理と新調を行いました。
なかでも各藩の馬標や藩士の旗指物だけは美々しく飾りたてるのがそのころの武家の見栄であり、たしなみでした。
本来、江戸時代はこのような商品に製造制限がかけられており、大阪でこの特権を持っていたのが三井呉服店で、糸店が実際の修理を引き受けることとなり、西国筋を中心とした諸藩の新調・修理の注文は三井糸店に殺到するようになりました。
また、大船の船標としての日章旗の需要も幕府の御旗奉行に公認された数少ない旗標商であったので特需に潤うことができました。これが三代目善右衛門の時代であり、中興の祖といわれています。