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President column
社長コラム

    社長ブログ 300回更新記念~豊田周平の生い立ちその1~幼少期からサラリーマン時代

    300回更新記念~豊田周平の生い立ちその1~幼少期からサラリーマン時代

     

    皆さんこんにちは、豊田周平です。この社長ブログも2015年からスタートし、今回の更新で300回を迎えることができました。

    毎週1回弱のペースではありますが、ここまで続けることができたのも、見ていただいている皆様のおかげだと思います。ありがとうございます。

    改めて今回は300回記念ということで、まずは私の幼少期からサラリーマン時代を振り返ってお話させていただければと思います。

     

    豊田周平の生い立ち

     

    祖父の弟から50年ぶりの男子として、豊田家に生まれました。正月には全く知らない親戚のところに祖父や祖母に連れられ挨拶に伺ってました。今になって当社、当家の歴史を紐解いているそれがどういう関係のところだったかを理解。

    @父の進駐軍払い下げのビートルと

     

    そんな経緯で生まれてきたので、いろいろ厳しく育てられたのかと思います。お蔵や納戸に閉じ込められた記憶もあります。私学受験への反発もあり、予備校以外は小中学高校大学と公立に。

    以前のブログでもお伝えしましたが、物理の世界に興味を持ったのは、高校時代に読んだ本で、それで進学先を決めました。

     

    大学時代から社会人になるまで

     

    物理といってもモノを対象とする物性物理学。半導体、金属物理、超伝導、統計熱力学、量子力学等々を学びました。研究室は高校時代に興味をもった高圧物理学の研究室に。地球の内部の様な超高温超高圧の条件下でモノがどの様になるのかを研究するところでした。で、先輩の方々が作られた装置を改良するところからスタートして、ダイヤモンドを合成したり、ダイヤモンド焼結体を作ったり、さらに様々な物質の状態を高温高圧下でX線回折やレーザー分光などで調べたりしました。詳細は以前にブログでも書きましたのでご興味ある方は参考にしてください。

    @大学の研究室

     

    で、修士課程まで行って就職。対象が目に見えるものの研究をしたかったのと、ちょうどファインセラミックブームだったこともあり、セラミックス関連の企業を物色して決めました。技術系を数百人規模でとる超大手メーカーではなく、技術系数十人規模新卒採用の会社です。

    当時話題に構造用セラミックス自身の開発をやりたかったけど、物理系≒電子系で電子材料の開発に。結果的にこれが良かったと思いました。

    ブームだった構造用セラミックスは花火をあげたほど市場も広がらずに、研究開発も先細り。電子材料用の機能性セラミックスはほとんど誰も手掛けてなかったので社内で先鞭を切る形になり、若い頃から外部との交流もいろいろできました。

     

    日本ガイシ時代 20年間

     

    日本ガイシでは20年間勤めさせていただき、単結晶材料の合成からスタート、その加工(切ったり、磨いたり)、そこに薄膜を付けたりしてデバイス化するところまでやりました。その中で共同研究という事で2回アメリカに。一度目は今で言うシリコンバレーで共同開発。二度目はアメリカの通信用デバイスのスタートアップに出資したので技術の責任者として赴任。

    なんのことかわからないとは思いますが、日本ガイシ時代にやったことのキーワードは、

    関わった材料:フェライト(固相反応法)、ニオブ酸リチウム(CZ法)、ルチル(FZ法)、BSO(CZ法)

    関わったデバイス:光ファイバ電圧、電流センサ、空間光変調素子、光導光路、光ファイバジャイロ、光ファイバアレイ、並列光伝送モジュール、光タップモジュール

    関わった装置:CZ装置、FZ装置、焼成炉、ピッチ盤、研磨機、ダイシングマシン、スパッタリング装置、真空蒸着装置、フォトリソグラフィー装置切断機

    で、最後にITバブルで撤退

     

    となりました。

    次回も300回記念として、サラリーマン時代以降のお話をさせていただきます。