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President column
社長コラム

    社長ブログ 阪神淡路大震災について

    阪神淡路大震災について

     

    皆さんこんにちは。豊田周平です。以前のブログ【アメリカで経験した日本の災害・国内テロ】でも少し触れましたが、23年前の1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災で私の家族、親戚、友だちの多くが被災しています。

    今まで書けませんでしたが、小学校の大好きだった同級生と友達の親が亡くなり、多くの知り合いが家を失くし、街の景色が全く変わってしまいました。

     

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    シリコンバレーで感じた震災

     

    震災があった時期はシリコンバレーに駐在していましたが、震災の前々日まで日本出張で、1月15日の休みに実家に寄って、関空からのフライトでシリコンバレーに帰りました。

    で、アメリカに帰った次の日、現地時間1月16日の昼頃に工場の人が「Shuheiのホームタウンって大阪?」「大阪のあたりでBig earthquake があったってラジオで」「?!」(もちろん英語やけど)と言われ、すぐに実家に電話しましたが、当然繋がりませんでした。名古屋の本社や家内の実家に電話しても情報が全く入って来ず。最後の手段でダイヤルアップのパソコン通信(インターネットじゃない、1200bps!)でNifty serve ニュースサイトを確認し、少しずつ出てきた写真は国道43号線の高速の高架が倒れている風景でした。

    どう見ても芦屋〜深江あたりで、この一枚の写真で被害の甚大さが目の当たりになり、「おふくろ、じいさん、兄弟は?友だちは?」と大きな不安がのしかかりました。

     

    おふくろの無事が確認できたのは現地時間の夜で、おふくろから電話があり無事を確認でしました。長男としてすぐにでも手伝いと励ましに行きたかったけどどうしようもなく、毎日おふくろに国際電話を。一月の電話代ウン十万にもなっていました。

     

    海外にいたからこそ複雑な思いにも

     

    アメリカも西海岸は地震が多いので、地元紙(San Jose Marcury News)は連日一面になっていて関心の高さが伝わってきました。震災の次の日には近くの基地(Moffett Federal Airfield)に何機もの輸送機に毛布などの物資を満載してReady to go の状態に。でも、日本の受入拒否でずっと足止め。

     

    以前のブログでも書きましたが、現地では「Why?」と。日本の政治的な問題等々で受け入れ拒否なんて恥ずかしくて言えませんでした。「直ぐに行って欲しいけど、多くの日本人は英語がしゃべれないから混乱する事を恐れてるみたいや。俺らの英語聞いてたらわかるやろ?」などと取り繕った返答を。すごくつらく、悔しく、残念な思いでした。

    当時はアメリカ以外でも世界の70カ国・地域と3国際機関から援助の申し入れがあり、最終的に44カ国・地域の支援を受け入れたそうです。

    海外にいたからこそ、複雑な思いになりました。

     

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