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社長ブログ 人生のキーパーソン~その②日本ガイシ時代~
人生のキーパーソン~その②日本ガイシ時代~
皆さんこんにちは。豊田周平です。先日は物理の道に進むことになった大きなキッカケとして高校時代の恩師2人紹介しましたが、今回はサラリーマン時代の日本ガイシで働いていた時のキーパーソンを紹介させてください。
入社当時の上司
日本ガイシに入社した時の上司(グループリーダー)Mさんで、口癖は「相手は世界」でした。社内での競争・日本の競争とかしてたらダメって考え方で、日本ガイシ在籍中に最も尊敬できた技術屋さんでした。
フェライト(酸化鉄)の磁気ヘッドを開発してたグループで、私は違う材料をやることになった時でした。実験甩の炉(セラミックスを焼くための)が必要になりましたが、当時貧乏なグループで新しいのは買えませんでした。
で、どうにかしなければいけないということでMさんと一緒に金曜日に研究所の中のゴミ箱あさり、他のグループの倉庫とかあさりをすることに。
で、レンガとか制御機とかメーターを借用?して、一緒に電気炉を作り上げることができました。
彼はいわゆるプレイングマネージャーで、手を動かして自分のアイデアの実証する人でした。彼のアイデアでブレークスルーしたデバイスも沢山ありました。
この社会人最初の師匠の考えがすり込まれていて、会社で自分がグループリーダーになった時も今も、手を動かしたくてうずうず、イライラすることが頻繁です。(すぐに私が手をだしてしまうと部下にためにならないので、ひたすら我慢です。)
柴田社長
柴田社長に初めてお会いしたのは米国から戻られ電子部品事業部長になられたときで、当時私は研究開発本部でエレクトロニクス関係の開発をやっていて、見学に来られていました。その時の質問がめちゃくちゃ鋭かったのが忘れられません。やってる本人が一番開発で心配しているところをズバっと指摘。この分野まだ勉強されている時だったし、文系の方で専門の方でもない。
7月の日本経済新聞の【私の履歴書】にも当時の柴田社長のことが書かれていましたが、電子部品事業部長という名前であっても赤字事業の責任者・そして本社に椅子が無いような状況。そんな中でインクジェットプリンターに使用する圧電セラミックス部品がエプソン独占供給になり、大きな黒字を出されています。
その後も小生の米国滞在中に出張に来られたときにアテンドしたり小生がやめるときには、「君は本当に開発費使ったよね」なんて言われた思い出もあります。
入社当時のY研究所長
入社当時配属されたときの研究所長で、とにかく厳しい技術屋さんでした。どんな立場の人にも言わなくてはいけないことを言ってくれる方で、時にはボロボロに言われることもありましたが技術の本質をしっかりと理解されている方でした。
印象的だったのが、ある時研究棟で出会ったときに「豊田、忙しいから10分だけ研究の状況を聞かせてくれ。」と所長室に呼び込まれて結局1時間以上も話を聞いていただき、議論できた事が忘れられません。
また、もう一つ忘れられない出来事で、かなり前ではありますが専務がリタイアされて、私も退職してだいぶたってからばったりと幕張メッセで開催されていたCEATECでお会いしました。
ご挨拶をさせていただいたら、一緒にいくつかのブースを回ることに。昔通りの厳しい質問を展示員にしていて、とことん技術屋なんだと感心し、嬉しく思いました。あの広い会場で偶然会うのは絶対に偶然ではなく、必然だだったのかと。
3人の先輩のことを書きましたが、日本ガイシ時代は本当にいろいろな素晴らしい方に影響をいただき、今の考え方や仕事にも役立てています。